蚊と旅

旅と創造

連載第16回

文・絵 小林エリカ

耳元でプウ〜ンという羽音が聞こえて目を覚ます。気づくと足首のあたりが痒い。電気をつければやっぱり、足首が小さく赤く腫れている。両手を振りまわしふらふらと飛ぶ小さな黒い物体を叩き潰そうとするが、いつまでたってもうまくいかない。仕方なく諦めて電気を消すと、またれいのプウ〜ンが耳元で聞こえて飛び起きる。その繰り返し。
蚊のやつめ。

子どもの頃から、私はとにかく蚊に刺されやすいたちだった。遊んでいて気づけばあちこちが真っ赤に腫れた跡だらけで、夏ともなるとそれが連日続いて痒くて痒くて仕方がない。
現代人で良かった、と思うのは、江戸時代の蚊責めの拷問なんてもってのほかだし、かつてだったら私はマラリアに罹って死んでいたやもしれないから。
どうせ住むなら蚊のいない街に私は住みたい、と結構本気で考えたこともある。

寒いところなら蚊がいないだろう。
呑気にも私はそんな風に考えていたのだが、とんだ間違いだった。
アイスランドへ行ったとき、ミーヴァトン湖というのが「蚊の湖」という名前だと知ってぞっとした。
思えば、シベリアでも永久凍土に眠るマンモスを掘り出すため、戦う相手は蚊なのだと聞いたことがある。よりによってシベリアの蚊はどこの蚊よりも強靭で、服の上からでも血を吸うのだとか。考えただけで失神しそうになる。

暑いところにももちろん蚊がいる。
アメリカ、フロリダ州のケネディースペースセンターにディスカバリー号の打ち上げを見に行った時、近くのココアビーチでのんびりしていたら、体中蕁麻疹が出たかと思うほど蚊に刺されたことがある(どうりでビーチに人がいなかったわけだ)。
噂によれば、スペースセンターがあれほど巨大な敷地をやすやすと手に入れることができたのも、そこが蚊だらけの土地だったから、とか。
あながち嘘でもないかもしれない。

この世に、蚊がいない場所はないのだろうか。
そんなことを考えながら猛暑の東京の庭へ出たら蚊が一匹もいなかった。
奇跡?!と思いきや、35℃を超えると蚊も活動が鈍くなるらしい。
そんな暑さでは、人間もまた活動できないのが難なのだが。

そんな憎き蚊であるが、先日友人から教えてもらった絵本「やぶかのはなし」栗原毅・文、長新太・絵(福音館書店)を読んだら、なんだかちょっとだけ溜飲が下がった。私はそこで、オスの蚊が血を吸わないことも、メスの蚊が卵を産むために命がけで血を吸うことも、はじめて知った。読むうちに、気づけばメスの蚊に感情移入している自分もいた。
一寸の虫にも五分の魂。

小林エリカProfile
小説家・マンガ家。1978年東京生まれ。アンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした『親愛なるキティーたちへ』(リトルモア)で注目を集め、『マダム・キュリーと朝食を』(集英社)で第27回三島賞候補、第151回芥川賞候補に。光の歴史を巡るコミック最新刊『光の子ども3』(リトルモア)、『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(集英社)発売中。