あたり一面に広がるキャベツ畑。
その隅にあるおんぼろの一軒家。
小さな裏庭にはいちじくの木が植えられている。
食卓では父と母がちびた鉛筆を手に外国語の本と原稿用紙を広げている。
私が育ったのは、練馬区ヴィクトリア町。
私が生まれるより前、父は精神科の医者だった。
代々続く医者の家系に生まれた父であったが、ある日思い立って、医者をやめて翻訳家になることを決めたらしい。
そうして、父が作家である母と一緒に翻訳することにしたのはシャーロック・ホームズ物語だった。
そう、英国のコナン・ドイルが書いた、かの有名な名探偵シリーズである。
二人の仕事場は、台所にある炬燵つきのテーブルの上であった。かくして、私を含む四人姉妹は、練馬にいながらにして、いきなりヴィクトリア朝ロンドンを生きることになった。
ベーカー街221B。
ホームズとワトスンが暮らしたとされる、その架空の場所はいつしか、私にとっても聖地になった。
いつか家族みんなでそこを訪れることを何度も話し合ったし、夢に見た。
17段の階段を昇ると、壁にはピストルで打ち抜かれたVR(Victoria Reginaの略)の文字。ナイフで手紙が突き刺さったマントルピースの前で、私は記念写真を撮りたかった。
けれど結局、お金がなかったり、時間がなかったりするうちに父が死んでしまって、その夢は実現しなかった。私が唯一父と母と一緒に出かけたのは、スイスのライヘンバッハの滝だった。
そこはホームズがモリアーティー教授と決闘を繰り広げ死んだとされる場所である。轟々と水しぶきが飛ぶ滝を見下ろしながら、架空の人物の死を私は悼んだ。
一昨年、私は遂に本物のロンドン、ベーカー街221Bを訪れることになった。
そこは確かに本やテレビで見たホームズとワトスンが暮らす場所そのものであった。
私はいたく興奮し、マントルピースの前でディアストーカー(※)を被り、虫眼鏡を手に張り切って記念撮影もした。
※英国で狩猟用として使われた帽子。シャーロック・ホームズが被っていたことで有名
けれど、私はその場所にいながら、練馬の実家を、みかんの皮が転がるカビ臭い台所のことばかりを思い出していた。ひょっとしたら、私にとってのヴィクトリア朝ロンドンは、台所のあの炬燵の中にこそあるのかもしれない。
「最後の挨拶 His Last Bow」
シャーロック・ホームズの翻訳者だった父が倒れ、四姉妹の末っ子リブロは家族の歴史をたどりなおす。時空を超えて紡がれる、風変りでいとしいファミリー・ストーリー。無数の喪失を超えて生き続ける言葉の奇跡を描く、注目作家・小林エリカの最新傑作小説。
1760円/講談社