「川端康成文学館」内にある「作家の書斎」コーナーでは、
実際に仕事机に座って万年筆で文字を書くなどの作家体験が可能
(新型コロナウイルス感染症拡大防止のため休止中)
テーマのある旅 川端康成の世界観に触れる旅
ノーベル文学賞受賞作家 川端康成の世界観に触れる旅

ノーベル文学賞受賞作家 川端康成の世界観に触れる旅

大正から戦後にかけて活躍した近代日本文学を代表する作家・川端康成。昭和43(1968)年、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えた」という理由で、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しました。小説『伊豆の踊子』や『雪国』など数々の作品を残した川端。2022年に没後50年を迎える川端康成の作品の世界に触れる旅に出かけましょう。

文/松尾好江(ランズ)

川端康成をおさらい

明治32(1899)年6月、大阪で医者の父と資産家の令嬢だった母との間に長男として誕生した川端康成。中学生のころから文芸雑誌を読み漁り、小説家を目指すようになります。大正9(1920)年、21歳で東京帝国大学(現在の東京大学)に入学。大正10(1921)年に発表した『招魂祭一景』が好評となり、文壇デビューを果たしました。私生活では、大正10(1921)年に、本郷にある「カフェ・エラン」で働いていた伊藤初代と婚約したものの同年に破棄されてしまいます。交友関係は広く、菊池寛や堀辰雄、三島由紀夫など多くの文豪たちと交流がありました。昭和43(1968)年、69歳でノーベル文学賞を受賞。4年後の昭和47(1972)年に、神奈川県の逗子マリーナの一室でガス自殺を図り、72歳でこの世を去りました。
雪国文学散歩道
川端が『雪国』を執筆した部屋を当時の姿のまま残している旅館「高半」の「かすみの間」
新潟県湯沢町

Spot01 『雪国』の世界を巡る雪国文学散歩道

雪国文学散歩道
歴史民俗資料館「雪国館」で再現されている雪国の生活
雪国文学散歩道
登場人物の島村と駒子がやりとりした「諏訪社」

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」で始まる小説『雪国』。昭和9(1934)年6月、川端康成は群馬県の大室温泉旅館から汽車で越後湯沢に向かいます。その日は高半旅館に宿泊。その後、同年8月に再び越後湯沢を訪れ、雪国に出てくる「駒子」のモデル・松栄に出会ったとされています。その年の冬、越後湯沢を訪れ『雪国』を書き始めました。昭和12(1937)年、初の単行本となる『雪国』を発刊し、翌月、第3回文藝懇話会賞を受賞。
『雪国』は、文筆家の島村と芸者の駒子の関係を、雪国を舞台に綴った物語です。「雪国文学散歩道」は、島村が下車した越後湯沢駅を起点に、駒子が訪れた諏訪社や川端直筆の雪国の碑がある公園などをめぐります。

雪国文学散歩道 住所/新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢2431-1(雪国観光舎 越後湯沢温泉)
アクセス/電車:上越新幹線越後湯沢駅すぐ、車:関越自動車道湯沢ICから約2分
電話/025-785-5353(越後湯沢温泉観光協会)

雪国文学散歩道
雪国館では、『雪国』の冒頭の一文を書いた川端直筆の所や生前の愛用品などが展示されている
湯本館
川端が長く通った湯本館の姿は歴史を感じさせる。
ここでの逗留中の大正14(1925)年、のちに妻となる秀子と出会った

Spot02 『伊豆の踊子』を執筆した湯本館

静岡県伊豆市

大正7(1918)年秋、20歳の川端康成は初めて伊豆を旅します。天城峠で旅芸人の一行と道連れになり、踊子の加藤タミに出会います。伊豆旅行の際に、湯ヶ島温泉の温泉旅館「湯本館」に宿泊。その後、毎年湯ヶ島へ足を運ぶようになり、たびたび湯本館を利用しました。大正11(1922)年夏、大学の夏休みに湯本館を訪れた川端は、107枚の草稿「湯ヶ島での思ひ出」を書きます。ここから踊子部分だけを書き直したものを『伊豆の踊子』として、大正15(1926)年に発表したのです。狩野川沿いに佇む湯本館は、川端が『伊豆の踊子』を執筆した際に逗留した部屋を、当時の姿そのままに保存。ロビーには、「伊豆の踊子」の資料が展示されています。

湯本館 住所/静岡県伊豆市湯ケ島1656-1
料金/1泊2食付1名16,500円〜
チェックイン/15:00
チェックアウト/10:00
アクセス/電車:伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅からタクシーで約20分、車:伊豆縦貫自動車道月ヶ瀬ICから約7分
電話/0558-85-1028

湯本館
川端が『伊豆の踊子』を執筆した部屋は、愛をもって「川端さん」と呼ばれている
湯本館
川端の落款を焼き印にした名物の温泉まんじゅう。前日の予約が必須
湯本館
源泉かけ流しの露天風呂は貸切で利用できる
茨木市立川端康成文学館
川端や川端の文学に親しむ場となるよう作られた川端康成文学館
大阪府茨木市

Spot03 ふるさとに建つ茨木市立川端康成文学館

茨木市立川端康成文学館
毎年6月には、川端の誕生日(6月14日)を記念し、川端に関する企画展が開催されている(画像は5月末まで開催の「川端康成がおくる児童文学」の様子)
茨木市立川端康成文学館
祖父母と暮らした屋敷の1/20の模型

明治32(1899)年6月、大阪市北区で生まれた川端康成は、明治34(1901)年に父を、翌年に母を亡くし、母方の祖父母に引き取られ大阪府三島郡豊川村(現在の茨木市)で暮らしますが、祖母、祖父も亡くなり、15歳で孤児となってしまいます。その後、中学の寄宿舎で卒業まで生活します。生まれつき体が弱く、学校も休みがちでしたが、成績優秀だった川端は、短歌や俳句、作文などを創作していました。川端が中学時代までを過ごした茨木市は、昭和60(1985)年に「川端康成文学館」をオープン。館内は、川端の生い立ちから、中学時代、ノーベル文学賞受賞時の資料を展示しています。また、「作家の書斎」コーナーでは、鎌倉の川端邸の書斎を再現しています。

茨木市立川端康成文学館 住所/大阪府茨木市上中条2-11-25
開館時間/9:00~17:00
休/火曜日、祝日の翌日(日曜日を除く)、年末年始
アクセス/電車:JR京都線総持寺駅から徒歩約16分、車:名神高速道路茨木ICから約7分
電話/072-625-5978

茨木市立川端康成文学館
館内では川端の遺品や作品に関する資料も展示されている
ぎふ長良川温泉ホテルパーク
長良川沿いに建つホテルパーク。川端が訪れた当時は「旅館 港館」という名前だった

Spot04 『初恋』の舞台ぎふ長良川温泉ホテルパーク

岐阜県岐阜市

川端康成は東京・本郷のカフェ・エランで働いていた伊藤初代(ちよ)と出会います。大正9(1920)年、カフェを閉めることになり、初代は店主の姉を頼って岐阜の西方寺に身を寄せました。大正10(1921)年秋、川端と友人は初代に会いに岐阜を訪れ、再会を果たしたのが、港館(現在のホテルパーク)です。同年10月、2人は婚約しましたが、翌月、初代が一方的に婚約を破棄。川端は、初代との話をもとに『篝火』などの短編小説を執筆しました。
大正6(1917)年に岐阜市長良川湖畔に「旅館 港館」がオープン。昭和35(1960)年にホテルパークに改名しました。館内の一角には川端康成のコーナーがあります。当時の様子がわかる写真などを使ったパネルや、資料などが展示されています。

ホテルパーク 住所/岐阜県岐阜市湊町397-2
料金/1泊2食付1名13,800円~
チェックイン/15:00
チェックアウト/10:00
アクセス/電車:名鉄岐阜駅からタクシーで約15分、車:岐大バイパス岐南ICから約15分
電話/058-265-5211

ぎふ長良川温泉ホテルパーク
ホテルパークの近くには、若いころの川端と初代をあらわした「篝火の像」が立っている
ぎふ長良川温泉ホテルパーク
ホテルパークの始まりは、明治27年に名古屋の大須で開業した旅館「明治館」。現在、ホテルでは2代目が和食料理店「八層閣」で提供していた「牛鍋」の復刻版が食べられる
ぎふ長良川温泉ホテルパーク
館内の川端康成のコーナーでは、岐阜での川端ゆかりの地や彼の足跡を知れるパネルなどが展示されている