【奈良】薬師寺に込めた持統天皇の愛と祈り~ルーツは飛鳥・藤原に~
平城京の西ノ京にある薬師寺。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の一つになっているこのお寺のルーツは、実は飛鳥にあります。その建立には、私が最も敬愛する持統天皇が関わっています。即位前の名は鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ、以下、讃良)、夫である天武天皇に対し深い愛情を持っていた方です。奈良県では最近、「飛鳥・藤原の宮都」が世界文化遺産への登録を目指す国内推薦リストに登録されました。注目を集めつつある「飛鳥・藤原」と関係性のある薬師寺や関連スポットを、讃良の人生とともに深掘りします。
目次
激動の人生を歩むこととなる讃良の生い立ちについて~祖父・石川麻呂が発願した「山田寺跡」~
『扶桑略記』によると、1023年には藤原道長も参詣しており、伽藍の様子を「奇偉荘厳(非常に珍しく、優れていて、立派で、厳かな様子)」と評している
讚良は古代最大のクーデター「乙巳の変」があった645年に誕生。父はクーデターの首謀者・中大兄皇子、母は遠智娘(おちのいらつめ)です。遠智娘の父は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ、以下、石川麻呂)といい、乙巳の変では中大兄皇子たちに協力しましたが、その4年後、中大兄に滅ぼされてしまいます。遠智娘は父の死を嘆き悲しみ、子どもたちを残して早逝。祖父を父に殺され、後を追うように母を亡くした讃良ですが、後に、中大兄の弟で叔父にあたる大海人皇子(おおあまのみこ)=後の天武天皇の妃になります。複雑な関係でしたが、天智天皇となった父と夫の間で争いが起きたとき、讃良はためらいなく夫に従うなど、深く結ばれる夫婦となるのです。石川麻呂は生前、山田寺を発願(※1)します。ここは建立の過程が判明している数少ない古代寺院の一つですが、石川麻呂が亡くなったことで造営は中断。その後、祖父の名誉回復と追善を強く願った讃良により、造営が進んだとされています。現在は「山田寺跡」として残っており、発掘調査が進んでいます。
※1発願(ほつがん):ある目的のために何かを建てようと心に誓うこと。
◆山田寺跡
住所:桜井市大字山田
電話番号:0744-42-6005(桜井市教育委員会文化財課)
亡き人の遺志を継ぐ愛のモニュメント「薬師寺」
世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の中でも、ひときわ美しい姿を見せる薬師寺。このお寺を発願したのは天武天皇で、公私ともにパートナーであった皇后讚良の病気平癒を祈ってのことでした。ところが運命は逆転し、天武天皇が先に亡くなります。讃良は夫の遺志を継ぎ薬師寺を完成させたところから、このお寺は二人の愛のモニュメント、祈りの結晶ともいえるのです。ただし、現在の薬師寺と讃良が見ていた薬師寺は異なり、もともとは飛鳥から遷都(※2)して造営した藤原京の中に作られました。その後、平城京への遷都の際に現在の地に移築されたのです。
※2遷都:6世紀末~7世紀末にかけては飛鳥(現在の奈良県明日香村)に、何代もの天皇たちの宮が置かれ、「飛鳥〇〇宮」と呼ばれていた。その後、694年に持統天皇によって初の都城制を備えた藤原京(現在の奈良県橿原市)が造営されるが、文武天皇の没後710年に元明天皇により平城京へ遷都。薬師寺など平城京に都が置かれていた奈良時代の遺産のいくつかが「古都奈良の文化財」として世界文化遺産に登録されている。
「凍れる音楽」とも称されるほど美しい東塔
薬師寺は平城京の繁栄とともに発展しましたが、平安京への遷都後は寂れ、何度も火災に遭い、東塔(国宝)以外の建物が焼け落ちました。その東塔を“凍れる音楽”と称したともいわれるのが、アメリカ合衆国の東洋美術史家で哲学者のアーネスト・フェノロサ。日本古来の文化財がまだ軽んじられていた頃に、その価値を認め、保護に努めていたフェノロサが薬師寺を訪れたのは明治時代。当時は東塔のほか、東院堂、仮堂などが立つだけでしたが、裳階(もこし)と言われる飾り屋根を三層につけた優美な東塔の姿を見て「凍れる音楽」と評したとされます。この言葉は18~19世紀に活躍したドイツの詩人であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテのもので、「音楽は流れてしまってそれで終わりだが、建築は音楽の持つ美しさを目に見える形にして、永遠にとどめることができる」という意味。このことからも、フェノロサがどのくらい東塔に見とれてしまったかがわかります。
そんな1300年前の創建当時の姿を唯一残す東塔(国宝)は、2009年から大修理に入り、 2021年に完成。ですが、コロナ下で落慶法要(※3)は2023年に延期されました。この大修理の模様は『新プロジェクトX〜挑戦者たち』でも取り上げられ大きな話題に。修理中に中の様子を見せてもらったのですが、その際には普段は見られない水煙(※4)が地上に降ろされていて、天人が舞う姿を間近で見られたのは感動でした。現在は大修理後に新調された水煙が塔の上に戻されており、空を見上げれば天人の歌声が聞こえてくるようです。
※3落慶(らっけい)法要:寺院や神社の新築、再建、修繕などの完成を祝う仏教の儀式。
※4水煙(すいえん):薬師寺東塔の頂上にある相輪(そうりん)の一部で、飛天や飛雲が透かし彫りで表現された装飾金具のこと。特に、笛を吹く天人が表現された姿が有名で、雷や火災から塔を守るという意味が込められている。
薬師寺の片隅にある「龍王社」で垣間見る悲劇の皇子・大津皇子と讃良の祈り
薬師寺・龍王社
薬師寺の片隅には「龍王社」という小さな社があります。ここは、薬師寺が藤原京から平城京への遷都の際、龍神の導きで現在の境内がある西ノ京に移ったという伝説があり、地元の方々が龍神を祀る拠点となっています。元々は境内の外にあったのですが、廃仏毀釈(※5)の際に移されたとか。
こちらで祀られている龍神とは、天武天皇の子・大津皇子(おおつのみこ)であるとされています。讃良の姉の大田皇女(おおたのひめみこ)と天武天皇の間にできた皇子で、讃良の息子である草壁皇子(くさかべのみこ)のライバルでした。しかし、天武天皇の崩御後に謀反の嫌疑を掛けられたことで自害したため、悲劇の皇子として有名に。この話は詳しくしませんが、私には、讃良の鎮魂の祈りを感じた誰かが龍神をお祀りするようになったのかな、と思われてなりません。今でも龍王社では、毎年7月26日に、地元の方を中心に龍王祭が行われており、龍神(大津皇子)に祈りを捧げています。
※5廃仏毀釈(はいぶつきしゃく):明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動のこと。
藤原京跡(きゅうせき)と本薬師寺(もとやくしじ)跡から感じる、讃良と元明天皇の祈り
さて、もともと薬師寺があった藤原京は現在、「藤原京跡」として、平原の中に朱塗りの列柱が数か所再現されているのみです。天武天皇の死後、持統天皇となってからも飛鳥にいた讃良ですが、晩年に孫・文武(もんむ)天皇のため藤原京を築きました。その際に夫が発願し、完成できずに終わった薬師寺も自らの手で建立したのです。
その後、藤原京から平城京と遷都しますが、それぞれの位置を見比べると、薬師寺の位置は同じです。この遷都を決めたのは元明天皇で、讃良にとっては父方の異母妹で、母方の姪でもあり、さらには息子の嫁でもありました。遷都の理由についてはさまざまな解釈がありますが、はっきりとはしていません。ただ、私は、元明天皇も讃良と同じくらい飛鳥に愛着を感じていたのではないかと思っています。讃良と元明天皇はそれぞれ、夫である天武天皇と草壁皇子を亡くし、後を継ぐ文武天皇の成長を見守っていましたが、早世してしまったため、やむなく元明天皇が即位。そんな背景から、平城遷都の際は讃良の想いを受け継ぎ、薬師寺を同じ位置に移したのではないでしょうか。
◆藤原京跡
住所:橿原市高殿町ほか
電話番号:0744-21-1114(橿原市世界遺産登録推進課)
◆本薬師寺跡
住所:橿原市城殿町279
電話番号:0744-20-1123(橿原市観光協会)
おしまいに
「古都奈良の文化財」の構成遺産と比べると、現在世界遺産登録を目指す「飛鳥・藤原の宮都」は地中に埋まっている遺跡が多く、想像を思い切りふくらませなければなりません。そのヒントになるのが、薬師寺のように藤原京から移ってきたお寺です。薬師寺の美しさだけでなく、讃良のようにそれぞれの寺社に思いを込めた人物たちにも焦点を当てながら「飛鳥・藤原」にも思いを巡らせてほしいです。















