[タベサキ Vol.9]
もし村上春樹が食べ歩きをしたら ぶらり、村上さんぽ
しゃぶしゃぶ
東京都
2019.12.26
タベサキ
文体模写の鬼才、菊池良氏が、村上春樹風の食べ歩き記事を書く連載、第9回。「兜恵比寿 本店」でしゃぶしゃぶを食べる。
イラスト:中根ゆたか
極上佐賀牛“飛び牛” しゃぶしゃぶ鍋 9,800円
女が恵比寿駅にやってきたのは、クリスマスの夕方だった。
待ち合わせ場所に行くと、まだ約束した相手の姿はない。女はミュウミュウの鞄からドストエフスキーの『悪霊』を取り出して読み始めた。女はジルスチュアートの手袋をつけながらも、器用にページをめくっていく。街にはポール・マッカートニーの『ワンダフル・クリスマスタイム』がかかっていた。
女がふと顔をあげると、目の前に羊男が立っている。マッチングアプリで出会った相手だ。身体にまとった羊の毛が汚れて灰色になっていた。女と目が合うと、羊男はやれやれという顔をする。
「しゃぶしゃぶを食べに行こう」と羊男が言った。
「しゃぶしゃぶを食べに行こう」と女が言う。
その店は恵比寿駅からわりに近い場所にあった。看板には『兜』とネオンが光っている。焼き肉としゃぶしゃぶの店だ。高級な牛を一頭買いしていることが売りの店だった。
羊男が中に入ると、店内の証明は薄暗く、ウェス・モンゴメリーの『Missile Blues』が流れていた。入ってすぐにカウンター席があり、その奥が半地下と二階に分かれていて、テーブル席や個室がある。
羊男はテーブルにつくと佐賀牛のしゃぶしゃぶを頼んだ。店員が鍋を用意し始める。きれいな霜降りが入った赤身肉が黒い平皿に敷き詰めるように乗せられて運ばれてきた。これをしゃぶしゃぶして、ごまだれかポン酢で食べるのだ。
「しゃぶしゃぶ」と羊男がつぶやいた。言葉にした理由は、特になかった。
薄く切られた肉をお湯に通すとすぐに火が通る。ごまだれをつけて口のなかに入れると、溶けるように消えていった。あるいは食べていなかったのかもしれない。いや、食べていたのだと思う。肉の味がしたのだから。しゃぶしゃぶを味わいながら、女はハッとした。
もう半分も食べてしまったのだ。
あまりにも食べやすいので、すぐになくなってしまうのだ。羊男も黙って肉を次々と食べ、合間にボジョレー・ヌーヴォーをなめている。
「そろそろ帰る時間だ」と羊男は言った。「もうお腹いっぱいだろう」
店を出ると、あたりの路面には雪が積もっている。羊男がその上を立つと、まるで数日放置された雪だるまのように見えた。羊男は女に背中を見せて歩いていき、やがて雪と同化して消えた。彼がつけた足跡も、しばらくすれば降ってきた雪で隠れてしまう。まるで最初からいなかったかのように。
Profile
ライター。学生時代に公開したWEBサイト「世界一即戦力な男」が話題となり書籍化、WEBドラマ化される。その後、WEBメディアの制作会社や運営会社勤務を経てフリーに。主な著書『世界一即戦力な男』(フォレスト出版)、『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(宝島社)などがある。最新刊『芥川賞ぜんぶ読む』(宝島社)が発売中。
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